父と子が抱き合いアスファルトの上に倒れ・・・書家 安藤秀川さんに聞く岐阜空襲 |ブログ|岐阜市シビックプライドプレイス

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父と子が抱き合いアスファルトの上に倒れ・・・書家 安藤秀川さんに聞く岐阜空襲

父と子が抱き合いアスファルトの上に倒れ・・・書家 安藤秀川さんに聞く岐阜空襲
◆岐阜空襲とは

昭和20(1945)年、7月9日、午後11時から翌日午前1時にかけて、米軍のB29爆撃機130機により、徹明通りと金華橋通りの交差点を目標に1万発以上の焼夷弾が投下され、市街地の70〜80%が焼失、負傷者1000人以上、約900人が犠牲となった空襲です。

罹災者は最大10万人で、これは当時の岐阜市の人口、約15万人の3分の2にあたります。
焼失家屋は2万戸以上で、市内の半数の家屋が全半壊の被害にあいました。

現在の徹明通りと金華橋通りの交差点

現在93歳の安藤秀川先生は昭和8(1933)年1月生まれ。
中学校に入学した12歳の7月に岐阜空襲を経験し、一ヶ月後の8月に終戦を迎えました。

平成28(2016)年に岐阜市民栄誉賞を受賞、岐阜県書作家協会名誉顧問や岐阜女子大学で教授を務めるなど93歳の現在も精力的に活動されている書家の安藤秀川先生に当時の体験をお聞きしました。

果たして12歳の少年の目に映ったのは、どのような光景だったのでしょうか?

岐阜空襲の被害状況の模型 ハートフルスクエアーG内平和資料室の展示より

岐阜空襲の被害状況の模型 岐阜駅周辺部分を拡大 ハートフルスクエアーG内平和資料室の展示より

◆子供だけで避難をした

加納天神町の先生のお宅では、警戒警報が鳴ったら、まず子供だけで800メートル先まで避難をしていたそうです。
両親はギリギリまで家を守るため、また画家であるお祖父さまが四日市空襲で足にヤケドを負った経験から、小さな子供が逃げ遅れないようにとの配慮だったそうです。

「灯火管制で真っ暗な中を5年生の弟と2年生の妹を連れて避難した」
と先生は語られます。

そこでしばらく様子を見て空襲がなければ自宅へ戻る。
毎日のように警戒警報が鳴り、それは7月9日空襲警報へと変わりました。

◆南へ 火のない方へ

岐阜駅の南側に位置する加納地区。当時はまだまだ周辺に農地が広がる地域でした。
線路を挟んで北側の岐阜駅前から柳ヶ瀬方面は住宅や商店が建ち並ぶ地域でした。

その為、火の手を避けるには南の茜部方面に逃げる必要がありました。
弟と妹と声を掛け合いながら、とにかく火のない方へ、火のない方へと必死に逃げたそうです。

「よく3人、はぐれずに逃げられたなと思う」
と先生は当時を振り返ります。

ハートフルスクエアーG内平和資料室入口 焼夷弾の模型と実物

「焼夷弾の落ちるザーッという音が逃げている間中聞こえていた。離れた所に落ちても、自分の所へ落ちて来るように感じた」

「妹は田んぼの畔やぬかるみを上手く越えられず、肩から下はずぶ濡れになりながらの避難だった。自分もぬかるみで靴を失くしてしまった。妹は運動がよくできたから何とか付いて来れたのかもしれない。生きるために必死だったから力が出たのかもしれない」

「どの方向も火の海で・・・でも一箇所だけ切れ目があった」

どちらを向いても火の海の中、遠くの方に角度にして10度ほどの隙間を見つけたそうです。
その隙間を目指して3人は走ります。

着いた先は笠松でした。
笠松や岐南には、よく魚採りに来ていたので土地勘があり、こんな時なのに少しは安心することができたといいます。

「境川の橋の下で野宿した。30人位の人が橋の下にいた。病人を連れた家族が手招きしてくれたから橋の下に入った。子供だけで避難して来たから心配してくれたんだと思う」

やがて頭上の橋の上を一宮方面から岐阜へ消防自動車が何台も何台も走って行ったと先生は語られます。

「27台まで数えた。不安だったから、数えることしかできなかった。その後は疲れて寝てしまったから全部で何台走って行ったかは分からない」

取り壊された西陸橋から取り出された戦災遺品 ハートフルスクエアーG内平和資料室の展示より

朝になり自宅へ向かって3人は歩き出しました。

しかしながら、辺りは一面の焼け野原。
所々に焼け残った箇所はあるものの、目印になるものは燃えてなくなってしまっていました。

当時は木で出来ていたため、燃えて高さが1メートル位になってしまった電柱が立ち並び、二階建ての住宅は30センチ位の瓦礫の山に。瓦礫の上には遺体が横たわっていたそうです。

何とか辿り着いた自宅前の道路には焼夷弾が落ちた穴があり、自宅は燃えてなくなっていました。

「家も食べ物もない。これからどうやって生きていこう・・・」

戦災遺品 ハートフルスクエアーG内平和資料室の展示より

◆父と子が抱き合いアスファルトの上に倒れ

先生の自宅から西へ行った辺り。岐阜駅裏の現在は十六銀行加納支店が建つ前の道路はアスファルトで舗装されていたそうです。
舗装されていたのは軍事物資を積み込んだトラックを走らせるため。
その道は西から東へ、加納駅を過ぎた所で南へ折れて笠松を抜けて名古屋の方へ続いていたそうです。

何とか戻っては来たものの、燃えてなくなってしまった自宅。
どうしようもなく近所を彷徨っていた時に、アスファルトの道路上に30人ほどの人だかりができていました。

何だろう?と思い、覗いた先に見えたもの。
そこには、父親らしき男の人と小学4年生位の男の子がまるで蝋人形のような姿で抱き合い、アスファルトの上で倒れて亡くなっていたそうです。
おそらく火事になった近隣の家から逃げて来て、道路上で力尽きてしまったのでしょう。

衣服は半分ほど残り、男の子の靴には「タカギ」とカタカナで書かれていたそうです。

『あぁ、この子はタカギ君というのだな』

「沢山の遺体を見たけれど、あの二人の遺体が一番衝撃的だった」
と悲しそうに先生は語られました。

その後、無事に両親と再会しますが、再会した時のことはよく覚えていないと言われます。

高温で溶けた後に固まったクギ ハートフルスクエアーG内平和資料室の展示より

◆記録が残っていないのが何故なのか分からない

岐阜空襲の死者は900人。多くが岐阜駅から北側の今でいう繁華街に居た人達でした。

先生が言われるには
「加納の住民は防空壕に避難するより南へ逃げた。街中(柳ヶ瀬方面)には防空壕が沢山あったから、みんな防空壕に避難した。結果的に蒸し焼き状態になってしまい助からなかったのではないか」

「聞いた話になるけど、金神社や梅林小学校辺りには多くの遺体が積まれていた。梅林は火葬場に近いから集められていたのだろう。だけどそれだけの遺体を火葬するって言ったって火葬場をフル回転させてもできるものじゃない。最終的にどうしたのかは、どの資料を見ても見つからない」

そこまで記録する余裕がなかったのかもしれない。
もしかしたらあまりに凄惨過ぎて記録にも残せなかったのかもしれない。
だとしたら、それはあまりにも悲しすぎる事実だと思います。

先生の自宅近くの加納天満宮の拝殿 空襲で本殿は焼失したが拝殿は焼けずに残った

加納天満宮の拝殿を裏側から

◆執筆を終えて

きっかけは小学生の頃から社会人になるまで安藤先生に書道を習っていた私が先生の卒寿記念の個展を訪ねたことでした。
作品解説をしていただいていた時に、話題が戦時中のことに移り、その時に先生は

「自分が語れる内に少しでも多く語っておきたい。語らなくてはいけない」
と力強く言われました。

岐阜空襲のあった7月9日には権現山の時鐘楼で平和の鐘が鳴らされる 市民も打鐘に参加できる

その時はどこかの新聞記者がいつか記事にしてくれればいいな、と思いながら聞いていました。
その後、自分がメディコスの市民ライターとして活動することになり
「だったら私が書けばいいんじゃないか」
と思い、このブログを執筆しました。

自宅にお邪魔した私に先生は、2時間半かけて体験を語ってくださいました。取材メモはノート8ページに及びました。

「まだ足りない。あと2回分は語れる。項目毎に質問をまとめて来てくれたらもっと語れる」
先生はそうおっしゃいました。

今回のブログに書いた内容はその中の2〜3割ほどに過ぎません。
戦時中の食糧事情、学校生活、アメリカ兵のこと、柳ヶ瀬のこと、沢山のお話をお聞きしました。
今回、語りきれなかったお話はいつかまたブログにできればと考えています。

市内の寺院でも打鐘ができる 打鐘ができる寺院の目印の幟

先生はおっしゃいます。
「80代の人でも戦争を語る時は、親などから聞いた話が入って来る。まだ小さくて覚えていないことも多いから。だけど90代の僕らだと終戦の時は中学生位だから聞いた話じゃなく、自分が覚えていることを語ることができる」
「周りの同年代がどんどん亡くなって・・・生きていても記憶が曖昧になっていってしまうから、今の内に語っておこうという気持ちが強くなった」

だから、このブログを読んだ90代の人が「自分も語れるかも」と思ったら、少しだけでもいいから語ってほしいと言われます。

「もちろん、自分も語れる内は語るから聞いてほしい。まだまだ体も動くし、こちらから出向くことも出来るから」

 

岐阜空襲
昭和20年7月9日
死者約900人
負傷者1000人以上
焼失家屋2万戸以上
罹災者最大10万人
市街地の7割以上を焼失

数字で表される以上の、そして私たちが想像する以上の多くの人々の想いと記憶、そして悲しみや無念がそこにはあるのだと実感しました。

戦後の岐阜に生まれた私たちではありますが、岐阜の町が持つ記憶として、この貴重な体験談を語り継いで行くことは大切な使命であるように思います。


<書き手>メディコス編集講座 第4期生 林千穂
メディコス編集講座とは、岐阜市の魅力的な情報を集め・発信する担い手育成を目的として岐阜市が開催している講座であり、令和7年度の第5期までに103名が修了し、市民ライターとして活動しています。