「巨匠」を感じる散歩道~長良橋から柳ケ瀬へ〜
「巨匠」。ある方面、特に芸術の分野で際立ってすぐれた人を指す言葉だ。岐阜の街を歩いていると、あちこちで、さまざまなジャンルの巨匠や、巨匠とかかわりの深かった人の足跡に触れることがある。彼らはかつて、この街で何を思い、どんな時間を過ごしていたんだろう?そんなことを考えながらそぞろ歩くのも悪くない。
◆川端康成と芭蕉
岐阜を舞台にした作品を手掛けた巨匠といえば、やっぱりノーベル賞作家の川端康成だろうか。『篝火』は、彼の実体験をもとにしたとされる短編だ。「私」とみち子が結婚を約束した後、長良川右岸の宿から鵜飼の篝火を眺めるシーンがクライマックス。こんな風に描かれている。
「そして、私は篝火をあかあかと抱いている。焔の映ったみち子の顔をちらちら見ている。こんなに美しい顔はみち子の一生に二度とあるまい。」
作品が書かれたのは大正10年。宿は鐘秀館という名だったといい、現在は「じゅうろく長良川保養所」となっている。長良川プロムナードに面した立地は、今も鵜飼見物にもってこいだ。
ちなみにこの小説では、「私」たちが最初に目指した宿が「この間の嵐に二階も階下も雨戸を破られて」休業していたので、長良橋を渡って対岸の宿に向かったと書かれている。休んでいた宿というのは港館、今のホテルパークだった。
ということは、もしも川端らが、すんなり港館に入っていたら、『篝火』のストーリーはまた違ったものになっていたのかも…。
長良橋南詰にある小公園、ポケットパーク名水に立ち寄ると、若い男女をかたどった「篝火の像」と、「川端康成ゆかりの地」と彫られた碑が立っていた。そして碑の隣にはこれまたビッグネーム、松尾芭蕉の句碑も。
「おもしろうて やがて悲しき鵜舟かな」
芭蕉は幾度も岐阜を訪れ、この句をはじめ、多くの句を詠んでいる。日本広しといえど、この巨匠二人の碑が隣り合って立つ場所は、そう多くはないに違いない。
◆ロダンと鷗外に注目されて
長良橋から南に向かう。金華山と岐阜城も「戦国武将界の巨匠」の本拠じゃないかといわれそうだが、今回はご無礼させてもらい、御鮨街道経由で鴬谷町の浄土寺へ。目指すは「花子の墓」だ。
花子は明治から大正にかけて欧米で活躍した女優。『考える人』で有名な彫刻家オーギュスト・ロダンのモデルとなった唯一の日本人だ。本名は太田ひさ。晩年は岐阜市西園町にあった妹の家で過ごし、昭和20年に76歳で亡くなった。
花子とロダンの出会いはフランスのマルセイユだった。花子の舞台を見たロダンが、断末魔の表情の迫力に打たれてモデルになるよう頼み込んだという。なるほど。今も残る花子の首の彫像が、死をモチーフにしていて恐ろし気なのは、そういう事情だったのか。
そんな花子に注目した、もう一人の巨匠が森鷗外だった。鷗外の短編『花子』は、花子が初めてロダンのアトリエを訪れ、モデルを承諾する様子が描かれた作品。フィクションの部分も多いようだが、ロダンが花子のどんなところに興味を抱いたのかについて、鷗外なりの答えを示しているかのような小説だ。
「花子 永眠の地」の石碑を横に見て境内を奥に進むと、墓地の一角に「太田家累代墓」と刻まれた墓石があった。脇の「花子の墓」の表示がなければ、誰も気づかないような、ごくごく普通の墓石。激動の生涯を送りつつ、「知る人ぞ知る」存在となった花子に似つかわしいのかな。そんな気がした。
◆若き巨匠の原点
小説、俳句、彫刻と思いを巡らせて「そういえば映画は?」と思いつき、柳ケ瀬へ。巨匠というにはちと気が早いかもしれないが、注目の映画監督がいるじゃないか! そう、もちろん『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督のことだ。
濱口監督は受賞の際、自らの映画の原点を、柳ケ瀬の映画館に通った小中学校時代だったと話している。自転車で通った柳ヶ瀬で『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などを見て、映画の魅力にとりつかれていったのだと。
戦後の最盛期は柳ケ瀬に10館以上あったとされる映画館だが、濱口監督が過ごしたと思われる1980~90年代にはかなり減っていたはず。その後、シネコンの台頭で環境はさらに厳しさを増していることだろう。
でもアーケード街を行けば、「昭和名作シネマ上映会」の文字が燦然と輝く。「映画とショッピング」と大書された看板が吊り下げられているのも嬉しい。柳ヶ瀬の映画の灯はまだまだ健在なのだ。柳ヶ瀬には、「巨匠」ゆかりの映画街としてさらなる歴史を刻んでいってもらいたい。そこからきっと「第二、第三の濱口」が生まれてくるはずなのだから。
<書き手>メディコス編集講座 第1期生 山下 雅弘
メディコス編集講座とは、岐阜市の魅力的な情報を集め・発信する担い手育成を目的として岐阜市が開催している講座であり、第1期となる令和3年度には23名が修了し、市民ライターとして活動しています。