No.33
“海のない岐阜へ、魚の面白さを届けたい”
世代を超えて受け継ぐ想いと新しい魚屋のかたち
内藤 彰俊さん
合資会社 魚ぎ CEO
食べる水族館 魚ぎ 四代目
1980年 岐阜市生まれ
明治から115年続く魚屋の四代目。福岡と東京での修業を経て、2016年より合資会社魚ぎの社長に。店舗をイートイン併設の魚屋にリニューアルし、サブスクサービスを開始するなど、時代に合わせたサービスを展開。「海のない県で育つ岐阜の子どもたちに、魚の面白さを知ってもらいたい」という思いから、魚の捌き方が学べる体験教室を開催するなど、食育活動にも尽力している。
現在のあなたの活動について教えてください
― 魚屋は明治43年創業とのことですが、当時はどのような形でスタートしたのでしょうか。
ひいおじいちゃんが行商人を始めたのが最初です。自転車の後ろに魚を積んで、移動しながら町に売り込みに行っていました。今のように店舗を持つ魚屋になってからは、玉宮町辺りの旅館さんに魚を卸したり、そこの従業員さんもご家庭用に魚を買いに来てくれていました。
戦前までは名鉄岐阜駅のあたりに卸売り市場があったので、魚屋が近所にたくさんあったんです。ひいおじいちゃんに聞いた話ですが、三河湾からの電車の一両がお魚列車になっていて、行商人や漁師たちが岐阜まで魚を運んでいたそうです。朝一で到着して、駅の目の前の市場で販売していたので、岐阜は昔から意外と鮮度の高い魚が手に入っていたんですよ。
― 魚屋を継ぐために、どのような経験を積みましたか。
福岡で一年半、東京で約1か月間の修行をしました。福岡の修行先は百貨店の地下に出している魚屋だったので、魚の綺麗さや処理の丁寧さがかなり厳しく求められました。早朝から夜遅くまで働く生活で、覚えることがとてもたくさんあって大変でしたが、一緒に働いている人たちとの楽しい時間もたくさんありました。その後、少しの間東京へ移ったのですが、実家が大変な時期だったこともあり、帰って家業を手伝うことになりました。修行の大変な経験のおかげで、今はどれだけ働いてもあまり苦にならないですね。すごく濃密な時間を過ごしました。
岐阜に戻ってからは、修行で学んだことを発揮しながら、お客さんがもっと喜んでくれるよう、当時のお店のやり方よりも少しだけ丁寧な魚の処理をしたり、自分なりに工夫をしていました。でもそうすると、少し余分に時間はかかってしまうので、先輩方にはそこまでしなくてもいいと言われたこともありましたね。でも、例えば自分が切り身を買って、焼いて食べたときに鱗が無かったら嬉しいじゃないですか?魚だから食べるときに鱗が付いていて当たり前、魚だから食べづらい、美味しくないって言われてしまうのはすごく嫌だったんです。今よりももうひと段階上のサービスができたらなって、自分なりに少しづつやり方を変えていきました。

― 「食べる水族館 魚ぎ」のオープンには、どのような想い・きっかけがありましたか。
「食べる水族館 魚ぎ」というネーミングは、お客さんがふと口にした言葉なんです。まだ魚屋の頃、たくさんの種類の魚がお店にズラーっと並んでいるのを見て、「食べる水族館やね~!」って言われたんです。「それめっちゃよくないですか?その名前いただいてもいいですか?」ってなって、それからイベントなどで使わせてもらうようになりました。その後、店舗の看板を新調するタイミングでお店の名前を「食べる水族館 魚ぎ」にしました。イートインに改装したのはその後です。せっかく「食べる水族館」という名前があるんだから、イートインサービスを始めてもいいのかなって思ったんです。
でも、オープンがコロナの流行りだした時期と重なってしまったんですよ。飲食店にリニューアルして間もなかったので給付金も貰えなくて。でも大変な状況だったから、逆にすごく頑張りました。InstagramやTwitter(現在のX) などのSNSに力を入れて、刺身の盛り合わせや花盛り(花が咲いたようにする盛り付け方)の写真を毎日載せていたら、それを見て毎日お客さんが来てくれるようになったんです。それまではネットにお店を出してみたりもしたんですが、どれもしっくりこなくて。やっぱり魚屋として、お客様と直接会って商売するのが一番だなと実感しました。
― 魚屋としては珍しい取り組みをなさっていますが、魚ぎに新しく取り入れたサービスについて教えてください。
まずはイートインサービスと、あとは月に一度魚の詰め合わせを取りに来てもらう「ととパーティ」というサブスクをやっています。お客さんに魚を目でも楽しんでいただきたくて、花盛りのサービスを始めたのも僕ですね。コロナ禍になって冷凍自販機がすごく流行った時に、魚をいろんな形で皆さんに手に取っていただきたかったので、その波にも乗ったり。鵜飼の時期は、岐阜市からの要請で、毎週水曜に鵜飼観覧事務所の横で鮎を焼いています。
社長になった当時は、先代までのすごく忙しかった時代に比べたら売り上げがかなり厳しい状況で、お店をどうにかしなきゃいけないって思いでとにかく動き回っていました。だからいろんな新しいサービスを取り入れましたね。「どうしたらお客さんが喜んでくれるかな?」というのを一番大事に考えて始めたことばかりです。
あと僕は新しいもの好きなので、常に何か生かせないかなって考えています。
― 内藤さんが感じる魚屋の仕事の魅力、面白さを教えてください。
知らない魚に出会えることですね。ずっと魚屋をやっていても知らない魚なんて数えきれないほどいて、新しい出会いが年に何度もあるんです。初めて見る魚とか、名前は知っていたけど初めて食べる魚とか。そういうことがいっぱいあって、それがね、すごく楽しいんです。同じ種類の魚でも、個体ごとに個性があって、もともと持っているパワーが違えば、一緒の工程を踏んでも味が全然違ったり。一つひとつの発見がすごく面白いんですよ。そういう試行錯誤を経て、食べたお客さんに「美味しかった!」って言ってもらえるとすごく嬉しいし、やりがいを感じます。
これからの野望(目標)について教えてください
自分の子どもたちがいつかこの会社を継ぐことになったとき、どんな形でも良いので「魚ぎ」をちゃんと託せるといいなと思っています。自分が「4代目ちゃん」って言われて育ってきたので、子どもたちにはあえてそういう風には言わないようにしているんです。でも、もし会社を継ぎたいって思ってくれたときのために、飲食の仕事や物販業務など、今自分たちがやれることにはできるだけ手を伸ばして挑戦しています。僕自身、どうしてもこの会社が魚屋であり続けなくてはいけないとは思っていないんです。ただ、115年も続いている中で、次の世代へのバトンはしっかり渡したいと考えていますし、そうできるように準備はしています。
あなたが考えるシビックプライドとは
― 岐阜のまちに対する想いを聞かせてください。
岐阜県って海がないから、魚を食べる食文化自体が海のある県に比べたらどうしても低いんですよね。海のない岐阜で魚屋をやる意義については先代もずっと話していました。やっぱり、このまちの皆さんに自分たちが美味しい魚を届けるんだ!という気持ちが強くあります。魚そのものであったり、お寿司以外のいろんな楽しみ方にも目を向けてほしいなと思います。「それを発信していくのが魚ぎの役目だ」と僕は考えています。
あと、岐阜は安心できるまちですよね。出掛けた帰りの電車で見慣れた景色が窓から見えた時にふと、「あ、いいところだなあ」と思うんです。僕が子どもの頃はこの辺りも商店街だったので、八百屋や雑貨屋など、いろんなお店がたくさんありましたが、時代が流れ、ほとんどのお店がことごとくなくなっていきました。そんな中で四代続けて115年も魚屋を続けられているのは、地域の皆さんの支えあってのことなので、本当に感謝しかないです。
コメント
社長に就任したときから、海のない県で育つ岐阜の子どもたちに、もっと魚を知ってもらいたいという想いが強くありました。魚ぎに来た皆さんに、まるで水族館に来たみたいに楽しんでもらえたらいいなといつも考えています。メジャーな魚だけじゃなくて、こんな面白い魚もいるんだよとか、ひと手間加えるだけでお家でもこんなに美味しく食べられるんだよっていうことを一人でも多くの方に伝えていくのが魚屋としての役目だと思い、日々取り組んでいます。
取材日 2025/9/9



