「転んだっていいじゃない。起き上がるのよ!岐阜髙島屋は47年の歴史に幕を下ろしたけれど。柳ケ瀬大好き地元民の想い」

令和6年8月、メディコス編集講座のワークショップで「シビックプライドプレイス」を見学した。その中の歴史ギャラリーの画面を見ていたら子供のころの懐かしい柳ケ瀬の風景が蘇って来た。
共働き家庭で育った私は、昼間は柳ケ瀬近くの祖母の家に預けられていた。柳ケ瀬商店街や金神社界隈は幼少の頃からの遊び場であり、身近な場所であった。それは今も変わらない。
かつて岐阜市には新岐阜百貨店、丸物百貨店(のち近鉄百貨店となる)などが建ち、PARCOにいたっては名古屋の出店より岐阜の方が早かった。
路面電車が走っていて、岐阜公園にはライオンが居てペンギンも居た。水族館にはオオサンショウウオも居た。
岐阜ってこんな所だったんだ
柳ケ瀬商店街の中で老舗和菓子屋を営む知人から聞いた話を思い出した。
「昭和41年に嫁いで来たけど、その頃の柳ケ瀬は夜の8時でもアーケードに人が溢れとって、お店も遅くまで開けとったから忙しかったわ。」
7月に復刻上映されたので見に行った『柳ヶ瀬ブルース』の中に出て来た柳ケ瀬の街が私の中で重なった。
映画の中の柳ケ瀬はアーケードも百貨店も大勢の人で溢れ活気があった。
昭和の時代は今のように便利な時代ではなかったけれど、柳ケ瀬も岐阜も日本も耀いていた時代だと思う。
信長時代の岐阜は、城下に市がたち多くの品物が並び人々が行き交っていた。その中には異国人も混じっていたと聞いたことがある。昭和には信長が岐阜に居た時代と共通するものがあるのかもしれない。
タイムマシンがあったら昭和の頃の柳ケ瀬に戻りたい。
そしてちょっと怖いけれど戦国の世の美濃の国も覗いてみたいものだ。
令和6年7月31日、柳ケ瀬のシンボルでもあった県内唯一の百貨店、岐阜髙島屋が47年の歴史に幕を閉じた。これにより岐阜県は全国で4県めの百貨店0県となった。
週に何度も訪れていた柳ケ瀬であるが、岐阜髙島屋の閉店後は訪れる機会が減り寂しく思っている。
地方では百貨店が閉店すると商店街は衰退する。しかしながら明治の濃尾地震(1891年)昭和の岐阜空襲(1945年)から立ち上がった柳ケ瀬だから、令和の世にまたしぶとく立ち上がってくれると期待している。
早速うれしいニュースも飛び込んで来た。
9月1日に「無印良品 岐阜髙島屋店」が「無印良品 柳ケ瀬」として、同じく岐阜髙島屋の人気テナントであった「恵那川上屋」は「恵那川上屋 栗市栗座 柳ケ瀬店」としてリニューアルオープンした。どちらも店名に柳ケ瀬が入りうれしい限り。栗市栗座にいたっては信長の楽市楽座へのリスペクトも感じられる。
「無印良品 柳ケ瀬」の2階の一角には新たに「本のひみつ基地」も開設された。
そうそう、柳ケ瀬はこうでなくては!
「転んでも転んでも三度も立ち上がる」という意思の象徴として閉店した髙島屋の前に柳ケ瀬商店街振興組合連合会によって金のだるまも設置された。
金にしたのはもう一度輝きを取り戻すという覚悟の表れだそう。
かつて『柳ヶ瀬ブルース』を歌った美川憲一さんからいただいたエールの言葉
「しぶとく生きるのよ」
と書き込まれた金のだるまだ。
自分が乗り越えたい逆境を短冊に書いて金のだるまに祈願もできるが、まずは柳ケ瀬の賑わいを祈願した。
すると、「しぶとく生きるのよ」
とだるまに言われたような気がした。
だから私も
「しぶとく通うわね!」
と返して帰路に就いた。
(令和6年9月執筆・令和7年6月加筆修正)
<書き手>メディコス編集講座 第4期生 林 千穂
メディコス編集講座とは、岐阜市の魅力的な情報を集め・発信する担い手育成を目的として岐阜市が開催している講座であり、令和6年度の第4期までに83名が終了し、市民ライターとして活動しています。